:: Welcome To Cast Group ::
 


CSR・社会貢献運動
特別企画コンテンツ
永田麻耶・中国会計士インタビュー
三戸俊英 公認会計士・税理士インタビュー
柴田正人弁護士インタビュー
中倫律師事務所 パートナー弁護士 胡蓉暉×キャストグループ CEO 村尾龍雄
範国輝・外国法事務弁護士インタビュー
朴木直子の中国税務★業務日誌
http://www.cast-china.biz/
キャスト法定監査
http://www.cast-china.biz/index.php?Mod=Content&Cmd=DataList&Action=Detail&Did=1663
 
 
[2010.3.8]

類稀なる知力と体力併せ持つ “超人弁護士”
「永遠の友好」の想い胸に日中を忙しく往復

外国法事務弁護士 範国輝カンフー少年、ミグ戦闘機パイロット、大学のサッカー代表選手、役人、律師、東大博士課程修了、日本外国法事務弁護士――弁護士法人キャストの外国法事務弁護士、範国輝の経歴を見て驚かない者はいないだろう。これまで、その類稀なる知力と体力を生かし、常人が2度、3度と生きても得られない濃密な人生を歩んできた。80年代初めより日本語の勉強を開始、中国から日本に拠点を移してから20年の知日派ベテラン弁護士は「永遠の中日友好」の想いを胸に、日本企業への高品質の法務サービスの提供を使命に日中を忙しく往復している。

艱難辛苦の文革時代、カンフーに明け暮れる
外国法事務弁護士 範国輝 中国黒龍江省ハルビンの満洲族の家庭に範国輝が生まれた3年後、文化大革命が始まった。範は艱難辛苦の少年時代を過ごすことになる。文革において満洲族は、近代以前の清王朝、それから「満洲国」という2つの歴史から批判の対象となった。また、範の父親は知識人であったため、範家は執拗な“批判”に晒される。
 「文革の混乱については、4歳のころから記憶しています。紅衛兵による批判大会は日常茶飯事で、家族や親戚、知人が批判のターゲットになりました。当時の厳しい環境は、今の平和な日本や中国の若者にはちょっと想像がつかないと思います。みんな貧しく、食卓に肉が並ぶのは年に数回で、雑穀中心の食生活でした。周囲は常に緊張感でぴりぴりし、精神的にも肉体的にも厳しい環境でした。今思い返すと、心身ともにずいぶん鍛えられました」(範)
 こうしたなか、両親は範に強くあることを求めた。6歳のある日、年長の友達と喧嘩して負け、泣きながら家に戻ると、父はなぜ負けたのか尋ねた。
 「相手が年上で、体が大きかったことを説明すると、父は言い訳だと断じました。その時父は、明治維新で富国強兵の道を歩み日清・日露戦争に突き進んだ日本を引き合いに、体が小さいことは理由にならない、国も人間も同じだと言いました。この時から日本について、それから明治維新について関心を持つようになったのです」
 この喧嘩をきっかけに、範は両親の勧めに従いカンフーの練習を開始。父親が探してきた師匠は地元において著名で、東北地方でも知られる達人だった。この師匠のもと、範は6歳から約10年間、カンフーの練習に打ち込んだ。

夢の空軍パイロットに合格するも大学へ進学
 範の少年時代の将来の夢は、1番目が戦闘機のパイロットになることで、外交官、政治家と続き、最後が弁護士だった。親戚にパイロットがいたことなどから、幼少から戦闘機乗りに憧れていた範は79年、16歳で空軍の入隊試験を受けた。
 「何万人にひとりしか受からないといわれる難関でした。特に、非常に高い身体能力を要求されましたが、私は生まれながらに体が丈夫で、カンフーとサッカーで鍛えていたこともあり、試験を突破しました」
 夢を叶えたかにみえた範だったが、父親は大学進学を強く勧め、軍人になることに反対した。当時は76年に文革が終了、77年から「高考」(大学入試統一試験)が開始され、大学進学が復活したばかりだった。
 「学校の先生などを経験した父は、私の大学進学を希望しました。自分が果たせなかった海外留学の夢を、私に託したのです。戦闘機のパイロットを諦めきれずしばらく抵抗しましたが、大学受験に合格したため、後ろ髪を引かれる思いで空軍を放棄し、大学に進学することにしました」
 その後も範のパイロットへの思いは断ちがたく、今でも当時の選択を後悔し、ミグ21をもう一度操縦したいという衝動を覚えることがあるという。
 79年、範が受験した高考は第3回目で、当時もまだ農村から戻った“下放青年”がたくさん受験したため、合格率は1.1%と非常に低かった。そんななか、16歳で飛び級で受験した範は見事に合格、同年9月に黒龍江大学日本語学部へ入学した。

日本語、法学、サッカー――文武両道の大学時代
外国法事務弁護士 範国輝 大学受験の直前、それまで外国語は英語とロシア語を学んでいた範は、日本語の勉強を開始した。先生は日本語の堪能な近所に住む中学教師だった。
 「私が中学生のころから日本のドラマが放送されるようになりました。父に教えられた明治維新や、ドラマのなかの発展し、洗練された現代日本に畏敬の念を覚える一方、清朝政府や日清・日中戦争などの歴史的経緯からその思いは複雑でした。日本語の勉強は、将来役に立つとの父の勧めがあり始めたのですが、これがとても面白かった。授業の初日、先生が黒板に書いた『張本人』や『手紙』など両国でまったく意味が異なる単語に、いっきに惹きつけられました」
 黒龍江大学に入学すると、日本語学部で日本語の研鑽を積む一方、大学2年からは法学部に聴講生として授業に出て、法律の勉強を始めた。また、ロシア語学部にも顔を出し、トルストイの小説『戦争と平和』などの作品の研究にも没頭した。
 さらに、入学から間もない秋の運動会のサッカーの試合をきっかけに、サッカー部にも入部することになった。範のプレーを見た体育教育研究室の室長は、その高い身体能力に惚れ込み、自らスカウト。その後、サッカー部は範が大学3年の時に黒竜江省で優勝し、全国大会への出場を果たしている。
 「明け方5時半に起床し、サッカーの練習。それから授業に出て、放課後はずっと自習という毎日でした。エネルギーと知的好奇心が有り余り、いくら勉強しても、運動をしても疲れを知らない、そんな大学時代でした」

石油工業省に配属。『大地の子』の取材に同行
 83年、大学を卒業した範は、中国屈指の大油田、大慶油田を管轄する石油工業省大慶石油管理局に配属され、石油化学プロジェクト担当となる。主な仕事は渉外で、日本の商社やエネルギー関連会社とのパイプ役を務め、日系企業との多くの国際交渉の場に立ち会った。
 「日本の技術を導入するため、日本視察もありました。初の訪日は83年で、東京を訪れました。その近代化ぶり、秩序、そして豊かさ、清潔さ、人々のマナーの良さに驚かされ、日本にかかわるようになって本当に良かったと思いました」
 85年には、中国残留孤児問題を主題にした小説『大地の子』の取材のため、ハルビンと大慶を訪れた山崎豊子に10日ほど同行し、通訳などを手伝った。
 「山崎豊子さんは、“批判現実主義”の作家として中国でも有名です。『華麗なる一族』は映画も公開され、当時非常に評判となりました。石油工業省が『大地の子』の取材をお手伝いすることになったのは、石油工業省にも残留孤児の方が働いていたからです。山崎さんは初対面で私の体格の良さに驚き、『あなたは何をやっている方?』と尋ねられました。博学でユーモアのある方で、非常に鋭く、深い質問をされたのを覚えています。ご承知のようにその後、『大地の子』は日本でドラマ化もされ、NHKで何度も放映され、多くの人々に感動を与えました」

弁護士資格を取得し、東京大学大学院に留学
 範は石油工業省で働く傍ら、弁護士になるための勉強を始めた。「仕事は面白かったのですが、現状に満足せずもっと上を目指そうと、子どものころからの夢のひとつであった弁護士を目指すことにしました。実は石油工業省で勉強を始めた当初から、日本へ留学し法律を勉強したいという思いがありました」
 当時中国では、民法通則も制定されておらず、法律体系は未整備の状況だった。全国律師考試(※日本の司法試験に相当。第1回目が86年に実施)もまだなく、一部の都市で独自の試験や審査認可を行っていた。範は85年にその試験に合格し、黒龍江光華律師事務所所属弁護士となった。
 「黒龍江光華律師事務所は黒竜江省立の弁護士事務所です。当時は、民間の弁護士事務所も、パートナーシップ制の弁護士事務所もありませんでした。私は石油工業省の仕事も兼務しながら、弁護士としての第1歩をここで踏み出しました」
 石油工業省の役人と弁護士の二束のわらじの生活を4年間続けた範は89年、日本に渡る。
 「石油工業省で働くようになってから何度も日本出張を経験し、日本への思いは募る一方でした。日本の商社やエネルギー関連会社のトップの方からは、日本に留学に来ないかと何度か誘っていただきました。そもそも、明治維新に興味を持っている自分には、日本法を勉強したいという気持ちがありました。日本の近代化は、福沢諭吉の“脱亜入欧”の思想の下で西洋の法制度を導入してから短期間で著しい転換を成し遂げており、まさに優れた法制度下での成功だったと考えました。日本法への関心は、留学先として日本を選んだ最大の理由です」
 こうした中、範は黒龍江光華律師事務所からの“派遣”というかたちで、東京大学大学院法学政治学研究科に研究生として自費留学を果たす。
 「当時、留学は3つの形態がありました。国費留学、私費留学、それから『公派自費留学』です。私は黒龍江光華律師事務所から“公派”され、自費留学しました。東大では、教育施設が非常に素晴らしく、感心させられました。教育方法も中国の『暗記中心型』とは異なり、自分で本を読み考え、レポートをまとめるスタイルで、最初は戸惑いましたが、徐々にコツを掴み、面白いと感じるようになりました。ひとつショックだったのが、教授が何か言わないと、学生は黙っていることでした。教授が順番に指名するとみんな立派に回答し、さすが東大生と思わせるのですが、自主的な発言が少ないことに少し失望しました。私は実務経験もあったため、他の学生から『でしゃばり過ぎだ』と煩がられるくらい発言しましたね。先生は評価してくれましたが、ちょっと周りから浮いていました(笑)」

長島・大野・常松法律事務所で孤軍奮闘
外国法事務弁護士 範国輝 91年、範は研究生を終了後、超難関の修士課程試験に合格した。
「修士課程へ合格しなければ奨学金もビザも下りず、すべてがオジャンになってしまうため、研究生時代は必死でした。学園生活では、教授の知識の豊かさ、英語やドイツ語、フランス語などの語学力、客観性、視野の広さに感心させられることが多く、パイロット出身の自分がこんな素晴らしい環境で勉強ができ、本当に幸せだと感じました。学問の面白さに目覚めた思いでしたが、学者になるつもりは一切ありませんでした。たくさんの知識を身につけたい、知識人としての父の夢を叶えたい、次の弁護士としてのキャリアに結び付けたいという思いで勉強を続けました」
 93年に修士課程を、97年に博士課程を修了した範は、長島大野法律事務所(現在の長島・大野・常松法律事務所)に入所し、99年、日本外国法事務弁護士として日本弁護士連合会・第一東京弁護士会に登録した。当時、同事務所は日本の渉外事務所としてはナンバーワンの規模だったが、中国関連のノウハウはほとんどなかった。こうした中、範は中国関係担当として活躍することを期待された。
 「中国案件の実績がまだなく、環境が未整備の中で孤軍奮闘しました。非常に大事な大きな契約の場合は、交渉やリーガルチェックする一方、翻訳を外注することもできず、自分ですべてやりました。同事務所ではその後、日本企業の中国への進出案件、合弁会社の設立や債権回収などで実績を積みました。とりわけ弁護士としての方法論やリーガルサービス精神などについて、恩師原壽先生、宇野総一郎先生を始めとする多くの優秀な先生方に教わり、いまでも感謝の気持ちが一杯です」

在日中国弁護士連合会初代会長に就任
 日本で活躍する中国の弁護士などの法学関係者が増え、交流のニーズが生まれたこと、また一部の中国人のビザなし入国問題などを解決するため、2000年に在日中国弁護士連合会が設立された。範は設立関係者による選挙で、連合会初代会長に選ばれた。
 「99年に法学関係者が集い、準備委員会を設立しました。私は当連合会を通じ、在日中国人のイメージアップや、中日法律関係者の交流と日中経済の促進を図りたいという思いがあり、主宰者として定款作りなどに関わりました。私の思いも盛り込まれた定款の内容について、長年日中両国の法律業務に携わっていらっしゃる日本のベテラン弁護士にチェックしてもらい、『なかなか立派ではないか』と褒めていただいたのを覚えています。その後、ニューオータニホテルにて、盛大な祝賀式典を行い、日弁連と東京三弁護士会の一部役員、大手法律事務所の代表、前官房長官の河村建夫衆議院議員、弁護士出身の保岡興治現役法務大臣、土井多賀子社民党党首などが会場に駆け付けてくださいました。本当に盛会でしたね」
 会長の任期2年間で、範は大連での日中弁護士国際大会や日本での弁護士同士の交流会、内部勉強会などの開催に携わった。また仕事の傍ら、日本の弁護士の協力得て在日中国人の法律問題の解決にも奔走する。
 「連合会の発足は、中国メディアや新聞等の報道で日本の中国人社会に知られ、徐々に影響力を持つようになり、法律相談が急激に増えていきました。当時、不法滞在と不法就労が社会問題となっており、当連合会でそれをなんとか解決したいという気持ちが強かったです。そこで、日中法律家交流協会の弁護士、東京入国管理局等政府機関と定期的に交流会を開催し、情報交換を行い、政府の問題対策の策定をバックアップさせていただきました。また、犯罪の再発防止のためには日本の法律を理解させることが大切ですので、日本の弁護士に協力していただき、無料相談も定期的に行いました。個別案件の場合は、日本の弁護士を紹介すると同時に、接見や法廷のために通訳の斡旋も行いました。こうした取り組みが、多くの問題の解決に繋がったのではと自負しています」
 範は会長を辞した後も“赤ひげ弁護士”として、日本の弁護士とともに在日中国人の相談を受け続けている。

黒田法律事務所から米系法律事務所に移籍
 2002年、範は長嶋・大野・常松法律事務所を離れ、黒田法律事務所に入所した。
 「2000年前半に中国の法制度の整備が大きく前進しました。こうした中、中国に戻り、北京の法律事務所で働くことも考えましたが、結局中国案件で大きな実績を上げていた黒田法律事務所で働くことを選択しました。黒田法律事務所では、投資案件を中心に、解散清算や持ち分譲渡、債権回収、政府関連の仕事などで貴重な経験を積みました。03年のSARSの際は、『カンフーで鍛えたのだから大丈夫』と黒田健二先生に太鼓判を押され、広州に出張に行きましたが、飛行機に乗るとビジネスクラスに1人、エコノミークラスには2人しか乗客がいませんでした。出張から戻ると、通常は自宅で1週間の待機のはずでしたが、私はなぜか3日間で出所となりました(笑)」
 さらに05年、米系ローファームのホワイト&ケース外国法事務弁護士事務所に移籍する。
 「日本の法律事務所を長く経験し、優秀な先輩方といっしょに働いたことで自信がつき、新しい発展の場がほしいと考えるようになりました。そこで、ダイナミックで大規模な案件を手掛ける米系ローファームに移りました。それまでと同様、紛争解決や債権取り立てなどあらゆる中国案件を任されました。特に巨額の投資をめぐる紛争解決や、中国の大手家電メーカーによる日本の大手家電メーカーの部門買収案件を担当しました。ここでの4年間で、より国際的な広い視野を持つ弁護士として研鑽を積みました」

弁護士法人キャストに参画。『永遠の中日友好』に貢献
外国法事務弁護士 範国輝 範は09年、10年来の友人である村尾龍雄がCEOを務めるキャストグループの弁護士法人キャストに参画する。
 「村尾先生とは旧知の仲です。日本では前例がない、法務、会計、税務のワンストップサービスを提供するキャストグループを成功させた人物として、以前から注目し尊敬していました。14年となる中国案件のキャリア、中国法への非常に幅広くて深い知識、中国語レベルの高さ、抜群の記憶力やクライアントへのサービス精神など、どれをとっても尊敬に値すると思います」
 現在、範は日中を忙しく往復しながら、投資案件やM&A(企業の合併・買収)、税関関係などを担当している。
 「税関は私にとって新鮮な分野で難易度が高く、とてもやりがいがあります。また、キャストは、通常の法律事務所ではできない分野をやり、差別化を図っています。M&Aのデューデリジェンス(事前調査)の質は、どの事務所に比べても優れています。どの案件もすごく勉強になり、キャストに参画し、本当に良かったです」
 中国は近年、法治国家に向い、法整備を積極的に進めている。こうした中、範は日々勉強を欠かすことができないと言う。
 「中日両国は、仲良くならない理由がないです。文化的な繋がりは周辺のどの国に比べても強く、経済的結びつきは強まるばかりです。今後、両国はお互いになくてはならない存在になるでしょう」
 現在、範は日中を東奔西走しながら、キャストで勉強を続け、質の高いあらゆる法務サービスが提供できる弁護士になることを目標に定めている。「今後も両国に精通する弁護士として日中関係のより一層の発展に貢献し、『永遠の友好』の実現に少しでもお役に立ちたいです」と範は熱く語っている。

 

" このページをA4版で印刷する
 

 

  トップページ | キャストグループについて | プライバシーポリシー